出会いというのはとても不思議なもので

 

ある哲人も

 

自身の心の積極化に努力をし

 

できるだけ明るく朗らかで溌溂と日々を過ごしてる方と交流する・・自分の気持ちが前向きになる人と交わり佳い刺激を受けなさいと語ってまして

 

 

交流する人に念入りになることを薦めています。

 

 

 

 

 

 

事実として、いい本( いい情報 )との出会い

 

人間力が高く積極で、いい人との出会いと交流で積極的感化を受け心が化学変化を起こし運命を変えることだってあります。

 

もちろん、理想的なのは、自分自身が周りの苦を除き

 

周りの運氣を知らず知らず好くし霊性を高める導火線になる

 

ということだとは思いますが

 

劇的な感化を与え霊性を突沸的に高めるようなレベルとなると流石に容易ではない・・
そういう方のご生涯を研究すると・・そういう方ってのは

 

例えば弁栄聖者・・この御方は、周りに、ものすごい佳き感化を与えた方ですが

 

生き方を探ってみると‥やはり尋常じゃない・・
服や食べ物などに全く頓着がなく
信者さんからお布施されたものを、自分より貧窮者がいたら
即座に与え、只管与え続けて、自分はお亡くなりになるまで只管極貧で満足してたという方もいらっしゃるし

 

黒住宗忠公のように田舎の神主さんで、ご存命当時は、無名だったけどもこの御方と関われて霊的感化を受け
篤信家になった方は、ほとんどの方が奇跡的に病が治る・・
なかには両目の視力を完全に失ってたような方が光を取り戻したり・・

 

心も陽気かつ積極的になって家運も盛り上がり繁栄したそう

 

 

公と関わって蒙が拓かれた方には信じられない奇跡が頻発したそうですが

 

なかには、例外もあり、できのよろしくないお弟子さんもいたらしく(;^_^A
黒住公ご自身はとても慎ましい生活ぶりだったそうですが
公のお弟子さんのお一人が商売が上手く行かないってことで
その懊悩、辛苦を見かねた黒住公は、お弟子さんの借財を肩代わりしたけど
そのお弟子さんの甲斐性がなく、またもや二進も三進も行かなくなる・・
それでも不肖のお弟子を信じて
その他のお弟子さんが布施してくれたものや、やりくりの中で
商売不振のうだつの上がらないお弟子に与え続けるっていうのを繰り返し
なんと自分も火だるまで二進も三進もいかなくなる・・
しまいには、その窮状を見るに見かねた他のお弟子さんに

 

「 いい加減にしてください!お師匠!」とたしなめられる・・

 

公は巨漢だったそうですが、まるで子供のように
お弟子さんらに詫びる・・なんてこともあったそう・・・

 

ある日、泥棒( 追いはぎ )に入られ10両よこせ!と脅された際には
手持ちの財産5両しかない・・あとの5両は後で払う・・〇〇という場所に埋めておく・・と言い
実際に、黒住公は、そうしたらしい。(;^_^A
驚いたのは泥棒( 追いはぎ )さんで結局自首して、その後罪を償い真面目になったそう‥(;^_^A

 

そんな感じで常識では推し量れない捧げ尽くす生き方を為さる方もいる・・

 

 

 

いくら周りの霊性を高め運気を上げる導火線になると言ったって

 

 

そういう生涯を貫くのは、さすがに簡単ではないでしょう。

 

 

 

ですので、このページでは

 

自分自身においても心を明るく強くする・・・身口意を取り締まることに努力し

 

日々目標を持って地道にプラスアルファの努力をしながら

 

 

そういう自助努力と並行して、よく交流し感化される人を見極め選ぶことによって

 

本人の運気や歯車のかみ合いが変わる可能性があることを

 

歴史上の人物をピックアップして考察してみます。

 

 

では、どういう人で運気の盛衰を考察をするか?ということになると

 

人それぞれ価値観が違いますのでなかなか難しいですが

 

 

日本史のなかで目に見える形で人物を探したら

 

 

 

これについては豊臣秀吉がわかりやすい。

 

 

なぜなら

 

日本人で豊臣秀吉( 藤吉郎 )を、知らない方はいないでしょう。

 

 

 

この御方は「 底辺から出発し、てっぺんまで極めた方 」
「 あり得ない異様な出世をした天下人 」として知られてますよね。

 

それが、あまりに見事で奇妙なので

 

伝記も多く出版されてますしNHKの大河ドラマでも度々主役扱いになってます。

 

 

そして

 

 

 いろんな方々がいろんな視点から秀吉という人物を評し

 

 奇蹟の栄達と強運の理由をあれこれ論じて議論に花を咲かせています。

 

 

 

もちろん読者のなかには

 

 

 

私は、別に出世や物質的なことなんて興味ないよ・・ハングリー精神やガッツや意欲とか
貪欲な好奇心とか・・なんだか汗臭くって、見てて痛々しい・・


という方もいるかもしれない。(;^_^A
今の時代は、そういう方のほうが多いような気もする。

 

気持ちもわからんでもない。

 

かく云う私もガッツや意欲・・ハングリー精神や瑞々しい好奇心は
人一倍蘇った気がするんでともかく

 

 

ある方の語った言葉

 

 

「物質的な利益に、どうしてそんなに有頂天になるのだ。
心の落ち着きを人生の目標にする者は、
自分の持ち物が増えたからといって喜び、
減ったからといって悲しんだりするものではない。人間は裸でこの世に生まれ
無一文でこの世を去るのだ」


という言葉に共感を寄せるような人間なんで気持ちの一端はわかるけども(;^_^A

 

 

 

ですけど「 目に見える形 」というので

 

どういうファクターが人間の運気に影響を与えるかを考える材料にできる・・というので

 

これほど( 眼に見えて )わかりやすい方は少ないし「 運氣 」というのを波を持った生命エネルギーとして考えて

 

交流によって佳き感化を受け増幅したり干渉し相殺されたりするかも??ということについて

 

私もまだ研究中だけど、これを契機に

 

「 運気 」や「 ( 後天的訓練による)人間力の高め方 」も併せて

 

考えるきっかけになればよいというスタンスなんで
生温かく大らかな目で見てくださると嬉しい。

 

 

 

 

ということで話を本題に戻して秀吉公の運気の強さについて所説を大きく分けると

 

 

「 桁違いの心の強さ、度胸、バイタリティを背景にした才知 」と「 対人関係の巧さ 」が運気に与えた影響を論ずるものが多くて

 

オカルティックな方面からは、秀吉公は大黒天信仰が強かったからだ!
大黒天の強い御加護があったこと・・これに間違いない!
なんていう異説も飛び出してますが・・

 

 

 

 

 

 ごくごくオーソドックスな栄達の理由として心の強さが運勢( 出世運の流れ )に与えた影響という点では

 

 

 

●( 秀吉公 )は、初志貫徹・・どんなつまらなくみえることや人の嫌がることでも
心の積極性、心の強さを発揮し
  誠心誠意( 真心 )を尽くし、小さな目標でも手を抜かず何事も辛抱強くやり遂げ続けたから

 

 

 

 

 例を挙げるなら・・

 

 

 草履取りやらせたら草履取りの職務( 役割 )を理解し才知を働かせ
この仕事がわが生涯の仕事・・
と与えられた立場で四六時中目標遂行に頭脳を巡らし誠心誠意ベストを尽くして
身の丈に合ったところで頑張って實力をつける・・・

 

足軽やらせたら足軽の仕事( 役割 )を理解し、これがわが生涯の天職・・
と思い与えられた立場でベストを尽くし、四六時中目標遂行に気を巡らし才知をめぐらせ
練り続け半端なことや、いい加減なことはしない・・
そうして誠意を尽くし十二分・・小さな目標を為す、そうして自身の實力を少しずつ養っていく

 

そうして、器と実力を少しずつ広げることで出世の階段を上がっていく

 

 侍大将をやらせたら、そこでもこれまでと同じように、これが我が一生の仕事・・
と思い侍大将の立場と役割を自覚し四六時中小さな目標遂行に気を巡らし
才知を練って与えられた職分にベストを尽して、この立場で實力を培っていく

 

 大名やらせたら大名の職務( 役割 )を理解し与えられた立場で・・
知略を巡らし誠心誠意ベストを尽くして目標を見据え職分を果たし實力をつけていったということ

 

こういったことが、とてつもない運を拓く要因になった・・という説

 

 

さらに

 

「 対人関係の巧さ 」というのが運気に与えた影響として

 

 

 ●( 秀吉公 )は、人に得をさせることをしょっちゅう考え、誰にも憎まれない、朗らかで誰からも好かれる・・人に、とても好かれる要素があったから

 

 

 

という2つです。

 

 

 

この2つの点から秀吉の、とてつもない運気の強さの考察を深めたものが多く

 

 

秀吉の才覚と知略と桁違いの心の強さ、人蕩(ひとたら)しの才が

 

あれほどまでの運を動かし奇妙な出世を成し遂げたということで

 

人々に信じられているのは歴史( 人物評伝 )に詳しい方なら、ご納得いただけると思います。

 

 

 

ここまでは、私も全肯定なのですが

 

 

 

 秀吉公を別の断面で切りつつ俯瞰して

 

 この人の生い立ちを含めた史実を追っていくと、

 

 

秀吉公は、寧々という人間力が高く、お互いの相性も抜群で

 

励まし上手で夫を信じる信念の頗る強い女性と結婚して

 

お互いを高めあってなかったら、はてさてどうなってたか・・

 

かなり危ういと私は思うに至っています。後だしじゃんけんの結果論ですけど・・

 

 

 

 結論から申しますと・・

 

 

 

多くの方々が秀吉という人物を研究してあれほどの強運を誇った理由として指摘なさってること・・

 

「 心の強さ、心の積極性、誠心誠意の真心 」(1)
「 人に好かれる 」(2)

 

(1)を貫くことが最も大事で、人に好かれるように心がけるのも大切なことと評してますが

 

 

これだけじゃないと思ってるんです。

 

 

 史実を挙げながらインスピレーションの力も借りて、その理由をこれから論じていきますが・・

 

 

 先ず言えることは

 

 

 

  秀吉( 藤吉郎 )は、寧々に会って結婚する以前から

 

どんなつまらなそうな仕事も、これが我が天職とうち決めて・・誠心誠意・・
どんなきつくても心の積極性を発揮し精を出してた形跡があるんですよ。(;^_^A

 

 それに

 

人に好かれるように、年がら年中主人が得になって得をさせることを考え
誠意を尽くしているふしもある。

 

だのに噛み合わないと申しますか・・大して報われていないんです・・不思議なことに・・

 

 

そういう不遇にも決して不貞腐れたり自棄にならない天来の楽天性や
心の強さというのが、確かに最も大事というのは、異論はないです。

 

一般的には、常人には耐えられないのではないでしょうか??

 

誠心誠意やっても、報われないということが只管12年間も続いたら・・

 

それでも心の積極性を堅持できたというのが最も素晴らしいことというのに
私も異論はありません。

 

なんですけど

 

 とにかく、この御方は

 

 誠心誠意を尽くしても不遇続きと言いますか・・

 

 この方の身の上に起こる出来事が約12年間浮かばれないんです。

 

 

 

 

これらは、wikiから引用して書いてるのが多いので、
今のところ確からしい史実とされてるものばかりです。

 

ということで

 

 

 

秀吉公のことについてほぼ定説で事実とされてるものを列挙してみますね。

 

★出自も武士とは言えない卑しい身分の出 氏素性がはっきりしない・・
名字があったかもわからない

 

 

★小柄だったせいか近所のガキ大将からも散々虐められていた

 

★秀吉の母親は再婚したのですが秀吉( 藤吉郎 )は、
養父( 竹阿弥 )と全くそりが合わず・・というか嫌われており、
暴力的な養父の不満鬱積のはけ口にされ、いつも苛立ちついでに折檻をされていた

 

 

 

 

 

 諸説の中で母親再婚説が有力で秀吉は、養父に、
いつもひどい仕打ちをされ虐待まがいのことをされていた・・

 

 

 なので嫌になって14歳くらいで家を飛び出た・・

 

 

 

 秀吉は、関白になったとき母親の「 なか<仲> 」の
叙任に際して従1位という異例ともいうべき
位を与えるために力を尽くしていて

 

 実際、この母親が亡くなったときに秀吉は気絶するほどショックを受けた・・
というような逸話も残っています。

 

 

 それなのに父親の存在が希薄過ぎでして、
父親のことになると、口がむっつりと閉じてしまってるんです。
そういう文献があることから養父から圧迫を受け
反抗と葛藤・・摩擦と軋轢の日々を送っていたらしいことが彷彿とされます。

 

 

 

 

 

 

さらには

 

 

★嫌になって14歳で家を飛び出してからは針売りの行商をしたが
全く上手くいかない・・食うや食わず・・
住まいも定まらない飢え死に寸前の放浪生活

 

★なんとか拾ってもらって最初に仕えた今川氏の家臣の家臣である
松下加兵衛には目をかけられ、雑役をする下働き( 小者 )として、
馬の飼料となる草を刈ったり雑用を黙々とこなした

 

 

★仕事ぶりが認められ3年で芽が出て17歳で小納戸役に抜擢され、
経費節減、さらには主人にできるだけ得をさせてあげれるよう
才知を巡らし誠心誠意を尽くし主人の家の赤字を黒字にした

 

 ここで14歳くらいから3年近く仕え誠心誠意尽くして
 芽が出かかってる。

 

 

 それなのに同輩から妬まれ疎んじられ虐められ屈辱を味わい伸びきらない。

 

★松下家の奉公人の娘「おきく」と結婚しますが、あまりうまくいかない
 同輩にも虐められ松下屋敷を去らざるを得なくなる

 

 

稀代の人たらしとされる方ですから、面白くて愉快で飽きさせない・・
憎めない方だったはずで・・人懐っこい笑顔で妻の「おきく」にも接したはず・・

 

賑やかで笑いの絶えない愛のある家庭が作れたはずなのですが・・

 

うまくいかず夫婦仲も冷える

 

 

 

 

 仕事仲間からの虐めが次第にひどくなる・・
あの人たらしの名人の秀吉ですから、
当然、人の懐に、ひょいっと飛び込んで、うち融けようとしたはず・・

 

 

ですが関係を破壊させる消極のパターンが作動し

 

 妬まれたようでして、とうとう松下屋敷に居れなくなって、「おきく」とも離縁。

 

先に書いたように

 

 文献を調べると松下家の経費削減と松下家の得になることに取り組み
これが我が天職・・と思い全力を尽くして才知を巡らし事に当たることで

 

徐々に才覚を発揮し事実として

 

赤字を黒字にし、得をさせてるという涙ぐましい貢献も為さっている・・

 

ある見方をすれば、これだけよい奉公人はいない・・

 

それにも関わらず・・離縁・・さらには今川家( 松下屋敷 )を去らざるを得なくなる・・

 

 ※ただし長い目で俯瞰してみたら、ある意味運がよかった・・ということでしょう。
  人間万事塞翁が馬・・人生何が幸いするか分からない・・・
 なぜなら、秀吉が今川家を去って数年後・・俗に言う「 桶狭間の戦い(1560) 」で
前士官先の今川家は、織田信長公によって滅ぼされてしまうのですから

 

 

 ただし

 

秀吉公の立場、この方目線で、この時限局内で見たら・・

 

この時点では・・客観的に見ても、これだけ生い立ち上のマイナス要因が多いわけでして・・

 

それに仕事でも真心と誠意を尽くし主人に得をさせても努力も実らない・・芽が出ても伸びきらない。

 

報われない・・・全く先も見えない。

 

ここまで不遇だと不運を嘆いて
自身の生い立ちを呪って恨みと愚痴を溜めこんで・・
もう自棄になり、不貞腐れて
人生をあきらめて自滅的、自虐的に生きていくという
「 選択肢 」も濃厚だったはずです。

 

 

 

自信も失ってたはず・・自分は無力で、容姿も劣っていて誰からも好かれない・・と・・
多少なりと感じてなかったはずもない・・・

 

 

 

  このあたりの秀吉の心理を司馬遼太郎さんの名筆
「 新書 太閤記 」による精神分析の篩(ふるい)にかけたら

 

どんな辛い、苦しいことがあっても養父に虐待されてた・・あの頃よりも遥かにマシ・・
飢え死に寸前の放浪生活よりも天井があるだけマシ・・と思って、
自身をゼロにし前だけ向いてたからこそ何とか明るく愉快に日々を送れたのだろう・・
といった趣旨のことが書かれていました。

 

( 少し私の言葉を付け加えてますけど・・この方の生い立ちは、マイナス要因が多すぎて
並の人間なら心が折れて・・自棄になる・・いじけて前を向く気力もなくしてる・・
フロイトの学説なんて、完全に棄却されてる・・この方の生涯を俯瞰すると・・・ )

 

 

 

 

 

 

そういう散々な不遇な目に会って松下屋敷( 今川家 )に居れなくなって

 

出ていかざるをえなくなりましたが

 

 

★17〜18歳くらいから織田信長に再仕官するが
 地べたを這いつくばるような辛い職務の連続

 

 松下家で3年奉公した経験を生かして信長の小者
つまり雑役をする下働きとして働き始めてます。

 

 最初は馬飼い・・松下家で小納戸役を務めた経験や実績は
まったく認めてもらえず最初っから振り出し、やり直しです。

 

 日によって日替わりメニューでやらされる仕事内容が違い、見通しが立てにくい・・
上の意向で、あっちこっちにやらされ、振り回される・・単純作業の割に
小さなミスも許されず叱責され責任も重い・・先も見えない

 

 

 自信も失ってたとは思いますが・・

 

 しかし・・それでも秀吉はめげない・・前だけ向いてる・・

 

 

 なお

 

 

 秀吉( 藤吉郎 )は、信長に認められ出会ったから
とんとん拍子に運が拓かれのだ・・という方も多いかもしれません。

 

 もちろん、そのとおりでして秀吉( 藤吉郎 )は、( 当時の時代の )格式や伝統・・
家格を重んじるガチガチの今川家だったら、あれほど認められて
世の中に出られなかったはずです。

 

 

そうは言っても

 

よくよく史実を追ってみると

 

寧々( 寧子 )という自立し人間力の高い・・
かつ波動相性のよい積極的な方と交際を深めて

 

数えで25歳で結婚する以前の6〜7年間は、
拾ってもらったことに死ぬほど感謝し誰よりも早く起きて、
どんなつまらなく思える仕事でも天職と思い精を出し貢献しても、大して報われてない・・

 

史実を調べると今川家( 松下家 )でも3年近くやっていたように

 

17〜18歳から織田家の小者として人の嫌がる難事を進んで引き受けて、
雑用仕事で、人が手を抜きそうな、つまらないこと、きついことも丁寧にやり遂げ実績をあげ実力を高め続ける

 

そうしてたら

 

★今川家のときと同じように頭一つ抜けて抜擢され台所奉行を任される。
経費削減に熱心に取り組んで経費をこれまでにかかっていた費用の
1/3にまで減らして、ここでも主君に得をさせたらしい。

 

秀吉公は主人に得させることを年がら年中考えてたからだと私は思ってます。

 

 

 ほんでもって、ここまで来るのに最初っから振り出しで
地べたをはいつくばるような奉公して既に6年近くもかかっています。

 

それに寧々と結婚する前は、いろんな文献を読む限りでは仕事仲間とも、( 一部を除いて )うまくいってません。

 

 

ここでも、試練と申しますか・・誠心誠意を尽くして主君に得をさせてるのに
周りの嫉妬もあるのか、なかなか芽が出ない・・と申しますか・・・

 

 

 

とにかく下積みが続いてる・・

 

 

 成功する人は他の人間を友とし、好かれ味方となし得るが、成功できない人は自分の周囲を敵や無関心者によって囲まれてしまう・・

 

もちろんご尤もなご教説ですが、こんなことは秀吉は肌で感じてたと思うんです。

 

 

 

 

 

 ですが

 

 

家を飛び出して14歳から25歳までの約12年間・・・心の強さや積極性を発揮し
与えられた職分を理解し立場をわきまえ、その立場で、これが天職・・一生の仕事と決め
精一杯ベストを尽くし関わる人とも仲良くしようとしたはずですが報われず・・
活かされず、這いつくばるような下積みを積むも浮かばれてないわけです。 

 

それでも腐らず、不貞腐れたりせず、やけっぱちにならない・・というのが・・こりゃあ改めて凄いなと思います。

 

 こういう史実を淡々と追ってみると、秀吉の心の強さや楽天性に驚かされますが・・

 

秀吉公は、そういう驚異的な心の強さというのを堅持してはいたけども・・

 

 

天晴れなほど噛み合わない。

 

 

それでも心の積極性を堅持し下積みを積んで

 

陰徳を溜めていったから

 

後に寧々という福女を引き寄せることに繋がって、後にブレイクしたとみることも出来ますけど

 

 

 

そんな状況だったのに

 

 

 

1561年に浅野長勝の養女で杉原定利の娘だった寧々を娶る

 

 

       ↑ ↑ ↑

 

この出来事以降から、何かがはじけたようにクラリと変わって、
心の積極性がパワーアップしたせいか・・ベースのところの運氣の流れが、だんだんとよくなっていくわけです。
       ↓ ↓ ↓

 

 

恐らく、お互いの波動的相性もとてもよかったというのと下積みの陰徳が溜まっていたのもあるのだと思いますが

 

 

事実として

 

同じ心の構えで同じことをやってる秀吉( 藤吉郎 )の身の上に起こる出来事がガラリと変わってきます。

 

 

これもベースのところの運気が変わって陰徳が目に見える形になってきたせいなのでしょうか・・

 

新書 太閤記 ( 司馬遼太郎 著 )から引用してみます。
一応史実にも則っています。

 

 

( ここから )

 

 

 

 「 猿が寧々を貰ってほどなく、にわかに騎乗の士に取り立てられたのである。
  
  はじめて織田家の士籍に入ったことになる。 
士であれば戦場には馬に騎り、侍兜をかぶり、家来数人を従え、
末席ながらもお城の祝宴や評定( ひょうじょう )に出ることもでき、
給付も扶持米ではなく、禄であった。禄は33貫で、まず最下級の将校といっていい。

 

 「 寧々、奇妙なことよ。お前を貰うと、禄がついた。
なんとおまえは福女であるらしい 」といって、寧々をよろこばせた。

 

 ( ここまで )

 

 

このように、今でいうところの将校になっています。

 

秀吉公(藤吉郎)が実際に

 

寧々に福女という言葉を用いたかは・・わかりませんけど・・

 

奇妙な運が向いてきたぞ・・と兆しを感じたのではないでしょうか?

 

 

 

 

 

さて、これをご覧のあなたは、不思議に思いませんか?

 

 

子供の頃に養父から虐待まがいのことを常にされ、圧迫され、周りからも虐められ
もうほとほと嫌になって家を飛び出して針の行商で諸国を放浪するが
全くうまくいかず餓死寸前になる。

 

 何とか今川家の家臣の家臣である松下氏に拾われ、
感謝感激して、そこで誠心誠意奉公し主人に得をさせようと奮闘してた時に・・
自分の才もよく知っていて
与えられた立場でベストを尽くして経費を減らすのにも貢献する・・

 

文献を漁ればあさるほど涙ぐましいことやってる感があります。

 

 

 ですが、それもむなしく全くと言っていいほど報われず噛み合わず伸び悩む

 

諸説ありますが、妻( おきく )ともうまくいかない・・

 

前妻のおきくは、まさか、結婚した、この方( 藤吉郎 )が

 

 

将来太閤にまで登り詰めるとは思ってなかったのではないかと。

 

 

 

寧々が、付き合うにつれ、すごい男と観て強く信じた男を

 

 

前妻のおきくさんは、付き合うにつれ

 

容姿も卑しく短所ばかりで

 

ダメ男( 駄目夫 )と見て不満たらたらで見るようになっていったふしがあります。

 

 

そうして結婚生活も長く続かず

 

離縁の憂き目に遭い、とうとう男ヤモメになってしまう。

 

 

無力感にさいなまれ、容姿も劣っている・・
自分は、どうやら誰からも好かれないらしい・・と自己嫌悪に陥りかけたかもしれません。

 

( ちなみに、いわゆるたいこもちの・・権力におもねる´よいしょ文献´ではない・・
比較的客観的な記述で有名なルイス・フロイスの「 日本史 」
という文献から秀吉の容貌を述べた箇所を追いかけてみると

 

 「 身長が低く、醜悪な容貌の持ち主で、目が飛び出している 」と記してます。
( 一応、この記述は当時のキリスト教布教者の悪意フィルターは多少入ってるとは思いますが、

 

秀吉ご自身も「 皆が見るとおり自分は醜い顔をしていて五体も貧弱 」と述べたことがあるらしいので・・ )

 

 

 

さらには

 

少なからぬ実績をあげ、主人に得をさせ大きく貢献したのにもかかわらず
同輩から煙たがられ妬まれ一人浮いたような形になって松下屋敷も追い出されてしまう。

 

 

 

 

そういうなかで・・恐らく相性の良かった織田信長公に何とか拾われ 

 

 

17〜18歳頃から織田家の小者として人の嫌がる難事を
進んで引き受けて、どんなつまらないこと、きついことも工夫をしながら精一杯やり遂げ実績をあげ続ける。

 

 

そうして

 

今川家のときと同じように頭一つ抜けて抜擢され
台所奉行を任され、その立場で経費削減に熱心に取り組んで
経費をこれまでにかかっていた費用の1/3にまで減らして、
ここでも主君に得をさせる。

 

 ここまで来るのに最初っから振り出しで
既に6年近くもかかっています・・
それに・・頭一つ抜けて浮いたことで周りに嫉妬されたのか・・
仕事仲間と、またもやごたごたしてもいます。

 

なかなか芽が出ない・・先も見えない・・展望も開けない。

 

 

 

なのに、なぜ、寧々と結婚して以降は、恐らく同じ心的態度で、同じようにやって、

 

( Before ) → ( After )ってくらい劇的に展開が変わり運が拓けてくるのでしょうか?

 

時間を大事にし与えられた仕事や役割を、どんなつまらなく見えることも精一杯、誠心誠意行うという
陰徳を溜めていたからという見方も出来るかもしれませんけど

 

 

私が思うに、秀吉公は、寧々との波動的なしっくり具合が抜群で

 

 

 

寧々は精神的にも自立していて人間力が高い。

 

夫に限らず人を勇気づけるのが上手・・励まし上手と申しますか・・

 

そういう人間力をバックに

 

前妻のおきくさんと噛み合わなかったのと違って

 

血液型で輸血できない血液があるように相性ってあるはずで・・
秀吉公( 藤吉郎 )との相性も良く

 

 

藤吉郎( 秀吉 )を、心底すごい男、面白い男と信じ
長所を包み視る大らかさと余裕があったんだと思います。

 

 

 

波動的相性もよいので共鳴し合って

 

寧々と他愛ない世間話したり、笑いあったりしてるうちに
秀吉公の心の強さが増し自信も生まれ、ガッツが噛み合うようになって
良いものが増幅されて出るようになった・・

 

寧々の大らかさや気配りが、周りの嫉妬や敵意も消したんじゃないでしょうか?

 

 

 そうして藤吉郎( 秀吉公 )自身も気づいてない
独自の才を見抜くのも上手になって
人の心を発奮させ生き生き働かせるのも上手くなっていったのかもしれない・・

 

 

 

 私としては、秀吉公の栄達は、自身のもつ類まれな生命のバイタリティに付加して
お互い相性がよく
置かれたどんな場においても人生を楽しむ余裕と円さが感じられる寧々との出会いと交流で
化学変化を起こし

 

お互いの良いとこを認め合うことによって
心の増幅的化学変容ってのが、相当に大きかったのではないか?

 

という仮説を立ててみたいわけです。

 

 

 

・・あとは・・・あの当時の時代の要求・・民衆の望みに合致して、「 時の運 」にうまく乗れたから・・とみてます。

 

( いわゆる時の運ってあると思います。 時の運に乗れれば吉になるが、時の運に見放されて残念ながら凶になるものもいる )

 

 

なお・・結婚に関しては寧々のほうが秀吉に惚れて積極的だった・・と言う説もあります。

 

( なぜなら、寧々の実母の朝日殿は、秀吉<藤吉郎>が一度結婚に失敗してるとか・・
その他、当時の身分が下など諸々の理由で、この婚姻に猛反対していたという伝記が残ってる・・

 

 そういうことからして・・秀吉の挫折にめっぽう強い・・生命力が強大で、常に前を向く明るさ・・
どんなに報われなくっても明るくって自棄にならない・・これを背景に・・
心が積極的で人間力が高く徳がある相性抜群の寧々と付き合うことで
打ちのめされてきたものが少しずつ癒えて秀吉に微かな自信が出て
心の強さがスケールアップしたことは想像に難くない・・ )

 

 

 私がインスピレーションの力を借りて寧々の心情分析をするなら

 

 

秀吉公( 藤吉郎 )の先妻のおきくは

 

あまり人間力が高くなく徳がないって言いますか(;^_^A

 

自分自身を楽しくする術を知らず
あまり大らかさもない・・(;^_^A
刺々しくって、ご自身を運が良いと思ってない・・

 

相性も良くなかったというのもあるかもしれませんが

 

 

藤吉郎( 秀吉公 )とつき合うにつれ

 

文句ばっかり・・(;^_^A

 

ぶつぶつ文句を言い不平不満たらたらで

 

この男は箸にも棒にもかからない詰まらない男だ・・と信じ

 

思うようになっていったふしがありますが(;^_^A

 

 

寧々の場合は先妻から愛想をつかされポイ捨てされた男を・・

 

自身も精神的に自立していて大らか、朗らかで

 

自分自身を楽しくし他人も勇気づけ励ます円さと
他を思いやる人間力もあって

 

秀吉公( 藤吉郎 )を「 この人は素晴らしい 」
「 この人となら面白い人生が歩める 」

 

と心底信じ切って、それとなく示していた・・

 

 

喩えがよくないけども

 

寧々は、<はなさかじいさん、婆さん>で

 

おきくさんは、<いじわるじいさん、婆さん>みたいな感じと言ったらわかりやすいかもしれない。

 

いや・・かえってわかりにくいのかな・・

 

同じ事柄( 犬のポチ、臼、灰 )に遭遇してるのに結果が天地雲泥に違うってやつ・・

 

 

 

 

 

一説には、当時秀吉公( 藤吉郎 )よりも4年くらい先に仕官し

 

地位も高く、武勇に長けていて体格も立派・・

 

容貌も見目麗しかったという記録が残っている前田利家( 犬千代 )からも
寧々は惚れられて・・結局寧々が選んだのが秀吉公(藤吉郎)だった・・
とも云われてるので

 

波動的相性も良かったんだと思います。

 

 

 

 

 秀吉を覚醒させたのは、もちろん心の強さ、積極性・・
元々人の上に立つ器・・・桁違いのバイタリティというのは、絶対条件としてあったと思います。

 

 何といっても、小学校の社会科の教科書に載るくらいの方ですから・・

 

 

 

ですが・・決してそれだけでなく、相性抜群で寧々の人間力と
´この明るいエネルギー´を否定せず、そのまま垂直に受け容れ自身でも努力した・・

 

 

 それからの秀吉公の目覚ましい活躍、そして運のよさは、この記事をご覧のあなたも、よくご存知ですよね。

 

 

  史実を追っていくと

 

 

 

★織田家家臣の誰もなしえなかった墨俣の一夜城での功績(1566頃)

 

 

さらには

 

★腹心中の腹心で名参謀である竹中半兵衛、川並衆の蜂須賀小六、前野長康らを懐の深さと人の懐に飛び込む天性の才と気づいてない才を関わった人に気づかせ心を鼓舞しわくわくさせる・・そうして一緒に仕事をするようになる・・

 

( 恐らくこういうのも寧々から無意識に学んだのでは?・・あとは自信もついたからでしょう )

 

 

ちなみに竹中半兵衛が秀吉の与力になるのは1570年初頭

 

 

これで、さらに運気がうなぎ登りに上がって強くなっていきます。

 

 

 

 

そうして

 

寧々と結婚してから9年後・・

 

★金ヶ崎の退き口(1570)

 

 

このときは信長が信じていた浅井長政に裏切られて、信長軍は、大きな危機に陥ったのですが、この際に殿軍( しんがり )を申し出てる・・という命懸けの決断をして強運と才覚で切りぬけてもいます。

 

※名軍師 竹中半兵衛の知略と川並衆の蜂須賀小六の体を張った命懸けの支え、活躍もあったと聞いています。
 特に、このとき秀吉軍の最後尾を担当したのが蜂須賀小六であったのは有名な話です。

 

 

 

以後は省略しますが

 

 

その後も破竹の勢いは止まることを知らず・・

 

一生懸命やっても、交流する方の運気にかき消されて、なんだか浮かばれない挫折と屈辱続きの12年間を経て・・

 

心が積極的で相性抜群・・人間力のある寧々と結婚して好い波動を交換し

 

高め合って運が拓かれる微かな兆しを感じて・・

 

それを育てて1561年に寧々と結婚して12年後の1573年には、とうとう長浜城主( 12万石の大名 )になってるわけです。

 

12−12−12で推移してる。

 

私・・思うんですが・・先妻のおきくさんは、このとき、ご存命であったら、どう感じたんだろうかと・・
容姿も醜く駄目な男、詰まらない男・・と駄目だし別れた男が約20年後に大名になってるんですから・・(;^_^A

 

 

寧々と出会う前の12年間の不遇と屈辱・・葛藤・・挫折・・

 

先妻のおきくさんからダメだしされ捨てられたような男(;^_^A

 

 

それが

 

寧々と出会った後の栄達・・この見事なまでの境遇の違いっぷり

 

 

 

 

そうして

 

本能寺の変( 1582 )後、主君を討った明智光秀軍の討伐を決断し、今や伝説となってる「 中国大返し 」で打ち破る

 

1573年に長浜城主になってから12年後の1585年には関白になって大阪城を建てている。

 

秀吉公の場合も12年周期( 前後3年の判断・振る舞い・・・命懸けの決断 )で人生の重要な岐路・危機があって、その選択とのるかそるかの決断によって大きな運命の変遷をたどってる雰囲気があります。

 

 

その後も幾つかの戦を重ね、関白を経て、とうとう天下人( 太閤 )になってしまう。

 

図示すると以下のとおりです。

 

 

 

 

秀吉は、最初っから天性のものがあって人間関係の達人で偉大だった・・みたいな説が流布してますが・・私はそうは思えんのです。

 

 実際、それなりに研究されてる史実では小さい頃虐待され虐められ25年近く地べたを這いつくばるような境遇・・・頭一つ出そうになっても杭で打たれて浮かばれなかったわけですから。
 最初っから人間関係の達人なら、松下屋敷をおん出されてないでしょう。
 相性も良くなかったというのもあると思いますが嫁さんに愛想をつかされて男やもめにもなってない。

 

自信も喪失し無力感も感じてたはず・・容姿に対する根強いコンプレックスも無かったとはいえない。

 

( 再び、たいこもち記述の少ないルイス・フロイスの「 日本史 」という文献からひも解くと「 指が6本あった・・」という記述もある。 これについては、前田利家の「 国祖遺言 」にも同様の記述があるので・・あながち嘘とも言えない・・ )

 

そんなコンプレックスの塊の秀吉を治療し、反転のエネルギーにして良い面を育てることができたのは

 

交流する人が変わって寧々との交流を深めてからと言うこともできます。

 

 

その寧々は自立した女性で、人間力も高く積極的で

 

先妻のおきくさんには全く見えてなかった優れたものを藤吉郎のなかに観たのではないでしょうか?

 

 

おきく目線で見たら、おきくさんが信じたとおり藤吉郎は駄目人間で信じたとおり
芽が出ませんでしたが

 

 

おきくの眼ではない寧々目線では藤吉郎という夫は「 素晴らしい男 」
「 この人となら面白い人生が歩める 」と強く信じてた。

 

 

そうしてお互い信じあうことで

 

身の丈に合ったところで実力を培いつつ( お互いに )越えていけた。

 

あとは、当時の停滞し荒廃した風潮を打破し、新しい風を入れたいと
うっすら感じていた民衆の望みに敏感で、時代のニーズに合っていたから

 

 

 

 

寧々目線で見たら・・寧々が強く信念し投影したとおりに、ほぼそうなったと言えるでしょう・・

 

ただし晩年(の寧々)は、相当にさびしかったはずで

 

この御方をないがしろにし始めて茶々に入れ込み始めた後の秀吉公の運気の凋落ぶりも寧々のエピソードのページで考察してますが

 

交流する人によって、こうも運気が変わるのか?がた落ちするのか・・と驚くほどです。

 

 

ある哲人も
できるだけ運のよい積極的な人と交わりなさいと語ってますが

 

交流する方で運気がこれほど変わってるのが、これほどわかりやすい事例も珍しいと言えます。