寧々のエピソード

 

寧々はどういう方だったのでしょうか?

 

秀吉公との波動的相性が抜群によかったから・・

 

というのを差し引いても

 

秀吉公と噛み合わず離婚したおきくさんと違い過ぎると申しますか

 

それとは真反対で

 

 

夫を信じ勇気づけ励ます

 

これほど夫を乗せるのが上手く人望ある福女は珍しい・・

 

この方のエピソードを調べれば調べるほど

 

 

別に秀吉公( 藤吉郎 )以外の殿方と結婚してても

 

精神的に自立していて

 

幸せでダイナミックな生涯を送れたんではないか?

 

ということを彷彿とさせると申しますか

 

 

置かれたどんな場においても日々をゆうゆうと楽しんでる
風趣と円さがあると言ったらよいのか・・

 

明朗さや運のよさも感じるし

 

こんな人間力が高い方も珍しいと私は思ってる寧々( 高台院 )について

 

フォーカスし、後に秀吉公が入れ込むことになった茶々( 淀殿 )とも比較しながら公の運気の盛衰の考察もしてみます。

 

 

 

この機会に福男・福女を探ってもよいのではないでしょうか?

 

 

 

自分のなかの福男・福女を目覚めさせるという手もありますね。

 

 

 

 

もちろん寧々以上の徳と慈悲のある名前すら出てこない福女だっていたはずで
たまたま寧々が権力と結び付いたからピックアップしてるわけで・・
歴史に埋もれてる方も多いとは思いますけど・・

 

 

 

 

そういうツッコミは、仰る通りですが

 

 

史実が残ってると言うのでわかりやすいということでご容赦ください。(;^_^A

 

 

 

ということで寧々という御方のエピソードから観て先ず言えるのは

 

 

 

 

1つ目として

 

●悩まない・・素直・・明るく陽気・・ニコニコ良く笑う

 

「 笑う門には福来る 」を地で行った方で
あれこれ文献調査した範囲では
会った人を喜ばせることに長けていて

 

 

気持ちに、いつも余裕があると言いますか

 

さばさばしてると申したらよいのか・・

 

無理に好かれようという執着もないと言ったらよいのか・・

 

裕さがあると言ったらよいのか・・

 

内側からの演技ではない自然な笑顔を心がけていたふしがあります。

 

 

 

2つ目として

 

●キーマンを見極める目に優れコミュニケーション力が非常に高く与え上手

 

人をよく見極める目があって以前から、主君である信長公には、つぼを押さえた
珍しい贈り物を贈ったりして感心され喜ばれてますし、公家となってからも、
たびたびキーマンに当たる方に贈り物を届けて感謝されていた・・
さり気ない気づかいを見せていたことが、
「御湯殿上日記」等から知られています。

 

メンタル的に気持ちに余裕があり大らかだから
贈り物を送る相手の方自身のことや、
その方が抱える問題、趣向や教養・・
そして、その相手が、どういうことに興味・関心を持ってるかをよく把握でき
日頃から関心を持っていたから、こういうことも、さり気なく・・
かつタイミング良くパッパッとできたのではないでしょうか?

 

寧々が、普段から、こういうことをして、夫である秀吉公のことを自然な形でアピールして与え上手でなかったら・・
いくら秀吉公が人蕩(たら)しの名人でも、信長公や他のキーマンの信頼を勝ち得てたか・・

 

 

秀吉は、朝廷( 公家 )との交流、交渉で異例の速さで官位が与えられていき
とうとう「 太閤 」という地位にまで昇り詰めることができたわけですが・・
これも寧々のこういったツボをおさえた裏方仕事がなかったら、ここまで異例のことが成し遂げられたか?
実にあやしいものです。

 

 

 

3つ目として

 

●問題解決能力が高く稀にみる人格者・・寛容でユーモアに長けている

 

ルイス・フロイスの日本史から寧々の人柄を述べた箇所を
追いかけてみると

 

 「 関白殿下の妻は異教徒であるが、大変な人格者で、
彼女に頼めば解決できないことはない 」と記してます。

 

 フロイスは、また寧々(高台院)のことを「王妃」
もしくは「女王」とも表現しています。

 

 この前後の文脈で「 ( 秀吉)は、300名の側室を抱えていた 」
という記録もありまして、寧々は14名の側室を含む
300名の女性たちを仕切る正妻として
皆から敬愛され敬われていたことが彷彿とされます。

 

このときには懐が大きく腹のすわった大らかな女性になってたことは間違いありません。

 

旦那の秀吉に対して喚き散らしたりヒステリックになったりはしていないはず・・
少なくとも公的立場においては・・

 

 もし、そんな醜態をさらしてたら・・キリスト教フィルターが入っていて
キリスト教以外の異教徒は滅法厳しい人物評価をくだしがちな
ルイス・フロイスから「王妃」もしくは「女王」という評価をされてないでしょう。

 

なお寧々は秀吉の浮気癖にはほとほと手を焼いて
嫉妬してもいますが、嫉妬すらも客観視してるとこがあります。

 

彼女は自身の心の消極性のひとつである「 嫉妬の情 」も
どこか冷静な観察者の眼で見てるふしがあって、
夫婦の・・ある意味、恥部と申しますか
恥を晒していまして、そういうのを、あけすけに信長公に訴えてもいます。

 

 

そうして、信長公から感状として以下のようなユーモアと
慈愛あふれる返事を貰ってます。

 

 

 ( 以下引用 )

 

「 この前久しぶりに会ったがあなたはいっそう美しさが増している。
藤吉郎(=秀吉)があなたに対し色々と不満を言っているようだが、
言語道断である。あの「ハゲネズミ(=秀吉)」が
あなたほど良き女を他に得られるはずはないのだから、
あなたも奥方らしく堂々として、嫉妬などしないように。
この書状は秀吉にも見せてやりなさい 」

 

( ここまで )

 

 あの信長公をして、ここまで愉快、痛快な筆致にせしめる文を書かせる・・

 

品を失しないユーモアもあることが彷彿とされます。
品の良いユーモアというのは温かさと気持ちの余裕から生まれると思うので
相当に徳があるように思います。

 

人格者で精神的に自立していてキーマンを見極める目もあり・・
嫉妬ですら、うまく使ってる・・

 

子供はいなかったそうなのですが・・荒くれで、やんちゃな子供たちを養子に迎えて養育し、海千山千の人と付き合うなかで前頭葉と腹が練られ、少しずつ発達させて心の尊さや強さ、寛容さ・・おおらかさを、さらに養っていったのではないでしょうか?

 

 それに、あの信長から、このようなユーモアあふれる書状をもらうということは( 先に指摘したように )

 

寧々は普段から誰に対しても調和に満ちたユーモアのセンスを磨いてたことが彷彿とされます。

 

 

さらには

 

 寧々は秀吉公の実母( 寧々にとって姑に当たる )である
仲<なか>( 後の大政所 )と仲がよく、
嫁姑は実の親子のように親密な関係にあった・・
仲<なか>の死去まで同じ屋根の下で暮らしていた・・と言われています。

 

 人それぞれの事情があるかもしれませんが、円くなく温かくなく人間力が高くなく
寛容さ( おおらかさ )もない・・ユーモアも微笑みもなく
とげとげしくガミガミ口うるさい方でしたら・・姑と衝突するのは避けられないはずでして・・
決して、こうはならないでしょう。

 

 

 

 

4つ目として

 

 

●家臣、領民からの信頼も厚く賢い・・そして感謝されることをしていて徳がある

 

家臣からの信頼が厚いという点では、子供に恵まれなかったため
福島政則、加藤清正らをやんちゃな少年の頃から養育し育てていまして、
非常に慕われ感謝されていたと言われてます。
寧々の甥である小早川秀秋も育てていたし、黒田長政についても人質になったときに、寧々が、親切で、よく面倒をみたという逸話があったと記憶してます。

 

 

さらに、この方は、徳がある・・と申しますか・・

 

こんな逸話もあります。

 

 秀吉公が初めて長浜で城持ち大名になって、この城下町を活気づけるために
“年貢の減免”や”諸役を免除”といった特令を発表したのですが

 

年貢や諸役を免除したため、農民や商人など様々な人が長浜に集まってきた。

 

 そのため、負担の多かった土地を捨てて、新天地を求めて長浜にやって来たため、
近隣のお米や農産物の生産が落ちて、そこの領主たちから
不満の声が上がった・・

 

そのことに慌てに慌てた秀吉は方針を転換し

 

「年貢の減免”や”諸役を免除の特典」これは、もうこれからは止めにする・・・という命を出します。

 

 

 

 これに困ったのが町民たちで、その困窮や必死の訴えを現場で直に聞き、ふびんに思った寧々は、秀吉に対し町民にかわって年貢減免や諸役免除の継続を熱心に求め、とうとう秀吉公も折れて、夫( 秀吉公 )の政治的決定を覆えさせてまして町民たちに深く感謝されています。
 ( 女性がこの戦国時代に政治に口を出せるということからして、かなり異例<異常>ではないかと・・ )

 

 この時代に、権力者である秀吉公に、女性の身で、こんなことに口を出してたら・・正室であっても相当に身が危ういわけで・・腹も座ってるし慈悲があり感謝もされていて徳がある。

 

 

さらに5つ目・・

 

 

これはインスピレーションですが・・

 

●寧々は、秀吉公の前妻のおきくさんより精神的に自立していて
自分自身を楽しくでき気持ちに余裕があって勇気づけ上手・・
強烈なピグマリオン効果と言ったらよいのか・・秀吉公のことを「 素晴らしい男 」
「 この人となら面白い人生が歩める 」と信じ切っていた。
心底からのめちゃくちゃ強い信念があった。

 

 

寧々のお人柄や個性はこういうのだけではないと思いますし、一部に文献的根拠が希薄なインスピレーション的記述も含まれていますが

 

何が起こったか?で私たちの人生は分けられるものではない・・
起こったことをどう解釈するか?という点から切りさいても

 

エピソードを知れば知るほど寧々という女性のパーソナリティは強く積極的で置かれたどんな場においても・・
逆境、災禍も困難も、ふうわりと優しく包み込んで
濾過し愉しみに変え面白味のある日々として心から楽しんでたことが彷彿され
どんな場でも、そこに笑いや明るさ・・余裕をも感じます。

 

とにかく大らかで強いパーソナリティを育てていったことは確かなようです。

 

 

なお、こういう記事をアップして、しばらくして

 

 

サイト読者で独身男性の幾人かから「 福女の見分け方 」のことを
メールで問い合わせされ聞かれたことがあったんですが

 

 

 

基本路線としては福女って感謝上手で親孝行だと思います。

 

どんなひどい親であっても親孝行・・

 

感謝上手で親孝行な娘かどうかで福女か否かを、ざっくり見分けることが、できるんじゃないでしょうか?

 

あとは・・

 

東大教授でありながら蓄財でも卓越していた本田静六という方の説では

 

身持ちが堅いというのは相当に重要だそうです。

 

 

静六翁の場合は「 私の財産告白 」等の財テク本ばかりがフォーカスされ

 

ドロドロ本は、あまり知られてないし絶版になってるんですけど

 

その本を拝見すると

 

この方は、華族( 当時 )の方々の人生相談にもずいぶん乗っておられて

 

ドロドロがあまりにも多かったことから貞潔はあまりに大事といったことが
本の中で述べられてました。

 

 

 

もちろん、そういう女の人を引き付けるには自分も貞潔を心掛ける必要があるし

 

偉い男だったら福女に変えてしまうのかもしれないですけど・・

 

 

 

 

 

ちなみに

 

 

小ネタですが、以前大河ドラマで放映されてた「 真田丸 」でも出てくる徳川家康は
秀吉没後・・そして関ヶ原の戦い・・さらには大阪冬の陣、夏の陣後も
一貫して高台院( 寧々 )を敬い丁重に遇しています。

 

 

家康は、非常に観察力が優れていて福女を見極める力もあったし
福女の力が身に及ぼす影響も知っていたのではないでしょうか?

 

 

 

関ヶ原の戦いに勝ったのは、福島政則、加藤清正らが徳川方についた。

 

黒田長政の大きな働き・・

 

 

さらには

 

寧々の甥である小早川秀秋が寝返ったことが原因とされてます。

 

 

もし

 

家康が寧々をないがしろにしてたら、やんちゃ盛りの少年時代から寧々に育てられてた
福島正則や加藤清正は味方につくはずもない・・寧々を心から慕ってたらしいので・・

 

 

黒田長政も若かりし頃、寧々に相当に良くしてもらってたので家康の味方についてたか・・実にあやしい??

 

まして小早川秀秋もどうなってたか・・

 

 

そうなると

 

関ヶ原の戦いもどうなってたでしょうか?
歴史が変わってた可能性すらあります。

 

 

 

 

ちなみに

 

 

 

 運命の岐路において、異性に溺れたりして心の積極性が失われ判断力が鈍ってしまったらどうなるのか?どういうことを、その判断、決断の果として学び体験し味あわなきゃならなくなるか?というのも、よくよく秀吉公の生涯をみていけば見えてくるものがありますんで、これも史料を参考にインスピレーションの力も借りて執筆してみます。

 

 

 

結論から言うと、つき合う人からの影響は侮れない。

 

めちゃくちゃわかりやすいです。運気の盛衰が・・秀吉公の場合・・

 

つき合う方によって変わるのが・・もう呆れるほどだから・・(;^_^A

 

 

 

秀吉公は寧々と結婚して12年後長浜城主になって
さらに、そこから12年後の1585年に関白になっています。

 

大阪城(の天主閣)も完成させ得意の絶頂状態です。

 

以下の図のとおり( 再掲します )

 

 

 

ここら辺りが絶頂期で、次のステージの岐路( 人生の大運の流れにおける転換期 )だったのではないかと思われます。

 

 

この転換期ともいうべき絶頂時に秀吉公は茶々( 後の淀殿 )に目を付け
相性のよろしくない・・徳と人間力・・そして運のよさという面でも
寧々には遠く及ばない茶々という異性に入れ込み、溺れていったのじゃないかと・・
※これについては正式な文献がありませんが、恐らく大運の流れからしても、この辺りの時期があやしいです。
  そういった資料が今後出てくるのではないでしょうか?

 

 

 そして、茶々に溺れ始めたときくらいから秀吉の心内に浮かぶ着想( 連想 )と申しますか・・
 その構想や施策・・行動もおかしくなって、温かさが消え運命も暗転していきます。

 

 

秀吉公が朝鮮出兵の計画を思いついたのは1585年くらいから

 

既に、その計画が秀吉の頭にあって芽生え始めていたという情報もあるくらいです。

 

 

なお

 

茶々は、庇護され命を救われたとはいえ秀吉に心底感謝してるとは思えんのです。

 

 

戦国時代で、あの当時は、そういうのは通例とはいえ

 

父親の浅井長政を秀吉(の戦功が特に大きく)・・彼によって殺されたも同然で自刃を余儀なくさせられる。
茶々の兄( 万福丸:当時9歳 )も秀吉軍に発見され捕えられ処刑されている。

 

さらには、お家騒動で茶々の母親のお市の方まで・・またもや秀吉によって死に追いやられてるんですから・・

 

あまりに哀し過ぎる・・深い憤りと絶望感、無力感・・怒りや恨みを無念の皮で縛って押し殺し圧封し深いところに押し込んだ背景を持った不憫な女性かと・・

 

 

悪女とは思えない・・見直されてもいいと思っています・・

 

 

 

とりあえず文献を幾つも読み漁った感じでは

 

 淀殿は優しい面もあるものの繊細で「 激情型 」の女性・・それゆえに非常につきあいにくい方だったとも言われています。
( あとは秀頼ONLYで、近視眼的になってしまい、より広く民のことや全体をみる余裕がなかった )

 

秀吉は・・自分でも気づけない悪いところが出るのをブロックし、自分でも気づけない´いいもの´が出るのを促す・・福女で徳があって運もよい・・自立した女性で妻でもある寧々に深く尽くして、そのよいエネルギーを交換し合えなくなって

 

 慢心して増長していった故なのか・・茶々という異性に溺れた故なのか・、ほどよい温かさ・・遊び心や大らかさも無くなり傲慢性や横暴、獣性などの心の消極性が強調され破壊的な悪いものが出る・・と申しますか・・冷静な判断力も鈍って他人を見下し冷酷かつ思い上がりが酷くなって、心の破壊的傾向性(消極性)が強調されていきます。

 

1588年に茶々を公式に側室にし、入れ込み・・・秀頼が誕生したら・・さらに言動や素行が、あからさまにおかしくなっていく・・

 

繁栄させ、人々と調和させる´いいもの´・・心の積極性に対応するものは、ブロックされ、なりを潜め長い目で見て自らを破滅させる悪い種子が心内で伸びて強調されていく・・・

 

 

 

 

そうして

 

 

あれほどの・・飛ぶ鳥落とす勢いだったのが運命に暗雲が垂れこんでいきます。

 

 

 

下積み時代の初心を忘れ、やることが残忍で身勝手になり

 

あれだけ人とのつながりを大事にして人好きで、どこか温かみとユーモアがあって親しみを湧かせる

 

 

人の懐に飛び込み、人に好かれ、人を発奮させ、自分でも気づけない他人の才を拓かせる天才だったはずなのに

 

 

そういうのが弱ってブロックされ人間関係とかも壊す・・不適応でごまかしの自己破滅的なパターンが強く出始める

 

悪いものばっかりが出始め心の横暴性(消極性)が増幅される・・すなわち・・傍若無人で、いよいよ思い上がって人を見下し自分を高いところに置きたがる

 

 

天下統一前の秀吉公は人が死ぬ事を嫌っていたと言われてるのですが・・横暴で惨い行動も増えていまして

 

ことごとく豊臣家が滅亡するような策や、おかしな言動ばっかりとって不興を買ってるし、敵を増やし崩壊をまねくことにつながることばかりやってるわけです。

 

 

 

 

運気の爆下げっぷりを図示すると以下のとおりです。

 

 

 

 

 

時系列で例をあげれば

 

 

 

●完成した大阪城及び天主閣(1585年)を落とす攻略法を、この年くらいに、あろうことか家康に教える

 

 この当時家康は、秀吉に臣従をしてたので、家臣のような位置でしたが、得意の絶頂にいたせいか・・家康に、この城の攻略法をうっかり漏らしてしまった・・という話がまことしやかに伝わっています。

 

 まさか、この会話を参考にして、( 秀吉自身の知恵を借りて )難攻不落のはずの名城である大阪城が
 30年後に、大坂の陣(1614〜1615)で骨抜きにされつつ
 たった1、2年で落ちるなんて・・・当の秀吉は想像もしてなかったでしょう。

 

 

●聚楽第でお金を湯水のように使い、しこたま浪費・・(1587)

 

 

●相談役だった千利休に切腹を命じる(1591)

 

北政所( 寧々 )や大政所らの懸命な助命嘆願も頑として聞き入れない・・
秀吉の言動を抑える力のあった秀長( 秀吉の弟 )がこの年・・
そして、この事件の1ヵ月前に亡くなったのも豊臣政権にとって相当に痛かったですが・・

 

 

 

●淀殿( 茶々 )との間の子であるとされる秀頼を後継ぎにするために・・関白まで位をあげた秀次(現役関白)を自害させる(1595)

 

※一説では、秀次の自害は秀吉の命ではない・・という説もありますが、北政所( 寧々 )らの懸命な助命嘆願も全く聞き入れず・・秀次だけでなく秀次に関係する妻子・・幼児、童女一家皆殺しが実際にあったらしいので、たとえそうであったとしても、ほとんど説得力がありません。

 

 しかも、殺されたのは秀次の縁者( 秀次の正室で右大臣 菊亭晴季の娘の「一の台」はじめ、その間に生まれた13歳の娘 )幼児、童女・・さらには織田時代から忠節を尽くして仕えてきた方の娘や最上義光をはじめとする大名家の娘も殺されたと言われてます。

 

( これには、周りも震撼したのだとか・・潜在的なところで敵を作り滅亡の因になってます )

 

 

●朝鮮出兵での失敗( 1592〜93 、1597〜98 )

 

( 膨大な戦費の支出・・権威の失墜・・武断派と文治派の対立が深くなる )

 

 もちろん世界史を俯瞰したら、英雄のこういった対外侵略はアレキサンダー大王、秦の始皇帝、ナポレオン等決して珍しいことではない。

 

 

 日本も朝鮮出兵から遡ること300年前の鎌倉時代にチンギス・ハンのモンゴル帝国統一後の勢力拡大の延長として・・その息子たちの時代に元兵を送られ北九州が戦場になったこともある・・・攻め込まれた方はたまったもんじゃないのですが世界史的に見たらそれが英雄の英雄たる所以・・という説がある。

 

 

 それに国内をほぼ平定したことで日本に戦が激減し仕事のなくなった武士(戦闘)集団の雇用( 失業対策 )という位置づけもあった・・これが世界史における国内を平定した英雄のその後の戦略の通例ともいわれている。

 

 それは、そうかもしれんのですが、この政策判断および断行が豊臣家滅亡を早めたことは間違いない・・

 

さらに、朝鮮出兵の際、小早川秀秋の失態を石田三成が讒言し秀吉の逆鱗に触れ領地が没収され、三成への恨みが増す
※この小早川秀秋が関ヶ原で西軍( 石田三成方 )を裏切り東軍( 徳川家康方 )に付くことで東軍の圧勝になるのはよくご存じのことと思います。

 

 

 

先に列挙したように、こういった失策は全て豊臣という政権が滅亡する直接の原因になったものばかりです。

 

人生の大運の12年周期の流れの中の分岐点で

 

秀吉公が相性のよろしくない淀君( 茶々 )という異性に溺れて入れ込んだりせず・・・・浮つかず慢心せず

 

 

 

相性がよく徳のある寧々を誠実に愛し、よく尽くして

 

たあいない自然な笑いと機知をふりまいて・・柔軟で創造的なコミュニケーションを楽しむ・・

 

自身を謙らせて日々を慎む・・心の積極性、良い面が出やすいように心がけ、積極性を養う・・

 

 

 初心を忘れ自分を思いあがらせ傲慢にさせ、自分を何段も上に上げて人を見下して

 

会話を硬直化させたりして心を消極化させず、

 

 

 人間力も高かった寧々とよく長所を交換し合って生命エネルギーの状態をよくして既定路線を歩んでたら・・

 

 

 判断や決断を、こうまで誤ることもなかったのではないでしょうか?

 

 こういう選択をするのは、当時の状況や秀吉公の好色傾向から見て、あまりにも難しかったと思います。

 

そもそも戦国時代当時に現代の倫理観や価値観を当てはめること自体に無理があるわけですが

 

やはり異性に溺れると、おあとがよろしくない・・時代を超えて公理が働くのではないかと・・・

 

1585年から1588年の判断と決断・・その振る舞いによって、その後の12年間・・1598年にお亡くなりになるまで

 

秀吉公が味わったことを史実で見たら一目瞭然でしょう。

 

 

 

 

ということで・・さらにも駄目おしで、もうひとつ小ネタを・・

 

 

寧々が福女で相性の良かった友だちも高めた事実をもうひとつ別の側面である友人( 親友 )と言う面から語るなら

 

寧々と小さい頃から仲がよかった「 まつ 」( 芳春院 )

 

この方は、10代くらいの頃から、寧々と隣同士の縁もあって

 

よく垣根越しに世間話しをしたり・・味噌や醤油の貸し借りまであって滅茶苦茶仲がよかったと言われてます。

 

 越前府中城主時代には、子供のなかった秀吉(寧々)夫妻のために前田利家とまつの娘を養女に差し出して寧々から大感激されてもいます。

 

寧々と仲がよかったまつが嫁いだ前田家ですが

 

 

秀吉没後・・徳川家康が大きな力を持ち始め、前田家当主の利家も亡くなる

 

 

そうなると

 

 前田家は豊臣政権におけるNO2ですので真っ先に滅ぼされてもおかしくなかったわけですが

 

前田利家の妻であった「まつ( 芳春院 )」が徳川家に自ら人質になりに行き、

 

「 大局 」を見極め、一時の激情に流されたり思い上がったりせず、いち早く前田家が臣従する姿勢を見せたため、滅亡が回避されるどころか加賀100万石の基礎を作っています。

 

 

まつ( 芳春院 )もレジェンド級の福女でして・・悲惨な新婚生活送ってたのに・・
まさに「 類は類を呼ぶ 」ということだと思いますが・・

 

秀吉没後も寧々( 高台院 )と仲がよく、老年になっても、ずっと仲良くしていた・・とされています。

 

そういうのを考え合わせると「 まつ 」自身の福運( 徳分 )とさらに大親友の寧々の福運( 徳分のおすそわけ )も加わって徳分のおすそ分けによりエネルギーが高かったがゆえに心の態度が積極化され「 人生の節目、岐路、危機 」における、その時々の判断を間違えず、優柔不断に陥らず、決断もよくして、御家取りつぶしの危機からも救われ・・安堵どころか加増までされ繁栄の礎を作った・・と見ることもできるのではないでしょうか?

 

 

ちなみに

 

読者の中には、

 

私が今回取り上げた 豊臣秀吉公およびその妻の寧々にしろ
こういった方々は世の中が乱れた乱世型に運を切り拓いた方なので

 

今のような時代にはそぐわない・・と感じる方もいるかもしれません。

 

 

 

 それに、「 幸福の内容量 」という点で、こういった英雄が、どれくらい幸福を実感して生活出来てたか?ということ・・これは本人にしかわからない・・うかがいしることのできないことです。

 

 

 

 それは、そのとおりでして・・あんまり幸福を感じてなかった・・ということも考えられます。

 

 

 

 

 ですが秀吉公は、あの階級制度に縛られて
古い価値観や伝統で縛られまくってた時代・・
独占的で閉鎖的な経済体制に風穴を開け

 

公平・公正な自由競争と実力主義とで新興勢力を次々誕生させ
活気を呼び込み中央集権体制の礎を作った信長の政策を継承し
日本全国の統治者になって新しい時代( 桃山時代、大坂時代 )を切り拓いて
新風を興した・・というのは、やはり凄いことと思います。

 

 

しかも、生まれながらに家臣がいた信長公や家康公とは違って
秀吉公の場合は農民出身とされてまして
彼を支えてくれる家臣団など、生れた時には、だれ一人いなかったところから
寧々や腹心たちの大きな支えもあって天下人になったのですから。

 

 

 

そういう意味では、

 

 

 

小さなことにくよくよせず

 

 

その心の強さを発揮し生命を完全燃焼させて当時の社会常識をぶち破った。

 

秀吉公の晩年の糟糠の妻に対する不義理はいただけませんが・・(;^_^A相性抜群のご夫婦で、乱世をよく生きて生き抜いた方々・・大きく生きた方々・・という意味で、過度に小さなことに拘り過ぎの現代の私たちに大きな光明と指針を与えてくれてるのではないかと思っています。

 

それと・・重ねて言いますが交流する人による感化によってこうも運気が目に見えて変わるのか?と驚き呆れるほどだし
やはり、異性に溺れるのは運気を落とす・・のではないかと。

 

 

 

総論で言えば

 

ある哲人も
同性、異性関わらずできるだけ積極的な人と交わり、よい感化を受けなさい

 

落ち込んでる方がいたら、決して同情はせず、勇気づけ鼓舞してやりなさい
と語ってますし

 

松下幸之助翁は面接で“運が悪い”と答えた人は、どんなに学歴や面接が良くても、即不採用にしたと聞いています。

 

 

つき合う人で運気の盛衰も変わる・・これは侮れない・・運が良いと思ってる方とつき合い
積極的なよい感化を受けるというのは運勢管理上も案外と大事な事なのかもしれません。