阿茶局のエピソード

 

 

阿茶局はどういう方だったのでしょうか?

 

やはりこの御方も家康公を信じる力が強いというのと
波動的相性がよかったから・・というのを差し引いても

 

 

この御方も精神的に自立していて腹が出来た御方で
人間力が非常に高い方だと私は思ってますので

 

 

 

阿茶局についてエピソードを紹介してみます。

 

 

この方には、こんな逸話があります。

 

 

 

 

それは家康公が将軍の位を秀忠に禅譲し駿府に隠居していた頃のこと。

 

秀忠の側近の酒井家次が将軍の代理で正月元旦の年賀の使い( 賀使 )として家康の元を訪ねた。

 

その際、その年は大変寒い年で、家次は寒いので、あんまり深く考えず・・

 

礼式もわきまえず軽〜い気持ちで寒気予防のために先ず綿帽子を頭にかぶって、その上から公的な礼服着装の際に被る折烏帽子( 侍烏帽子 )をかぶって、元旦のご挨拶に臨んだらしいのですが

 

 

将軍の使いとして公式に家康に年賀のご挨拶をするとき

 

運悪く侍烏帽子がすぽっと脱げて、内側にかぶっていた綿帽子が露わになってしまった。

 

 

家康公は、これが気に入らず、

 

「 お前の父の忠次のような老体ならともかく、
  お前のような若者が、そんなことをするとは!なんとも横柄、横着で無礼なことだ・・
 隠居した身である、わしの前だから、事は大したことではないが、
もし、これが江戸の諸大名が列席する公式の行事の前であってみろ・・
こういった場で、こういうことがあって、側近であるそちが、礼法にない綿帽子なんかを丸出しにし
間抜けな姿をさらしたら・・・これは将軍家の恥・・諸大名からの失笑の種・・
ひいては、その御威光にもかかわることぞ!なんたることぞ! 」

 

と家次を、ものすごい剣幕で叱りつけた。

 

 家次は、家康の勘気にふれ、ただただ恐れ入って小刻みに震え平伏していたが

 

これを傍らで見て不憫に思った阿茶局はとっさの機転を利かし

 

 

家康公に

 

「 家次殿は実は昨夜、ひどい風邪で、とても年賀のご挨拶は無理なご様子でした。

 

これでは明日の拝謁がかなわない・・1日延ばして1月2日にしようか・・実は思い悩んでいると申しますので
もし、年賀のご挨拶を1日延ばしたら、いくらひどい風邪とはいえ、大御所さま( 家康公 )が、どうお思い遊ばすか・・・その心証を量りかねるので・・

 

そんなことをするくらいなら

 

 私(阿茶)が厚着をしてもよい、綿帽子をつけてでもよいから、少々無理してでも年賀のご挨拶の大役を果たした方がよいでしょう。

 

 

と家次殿に私(阿茶)が申したのです。

 

このことは全て私(阿茶)の一存でしたことで、決して家次殿の思いつきではないのです 」

 

と( 嘘 )の事情を話し、家臣の窮状を救うために、自分に非を着せ、とっさに助け船を出したそうです。

 

 

阿茶局にそう言われた家康公は、怒りを鎮め、家次は、何とか事なきを得たとのことです。

 

 

 

こういったことは、ほんの些事に過ぎませんが、こんなことが自然かつ咄嗟にできて
しかも巧く場をおさめられるような人は、そんなに多くないかもしれません。

 

普段から心のトレーニングをしており、思いやりを耕し
なおかつ聡明でないと、咄嗟( 反射的 )に、こういうことは出来ない・・
場もおさめられないでしょう。

 

( これとは反対で何らかの失態を犯し責められたりしたら
自我防衛のため咄嗟に他人に罪<非>をなすりつけ
濡れ衣を着せ、後で良心が傷み後悔し心が消極的になる因を作って
その後の心のリカバーに多くの労力と時間を要する方も多いです・・ )

 

 

 

人格に優れていただけでなく才知に長けていて聡明だった・・ということについては上記のエピソードからも彷彿されますが

 

その聡明さだけでなく彼女には腹力( 腹の力 )もあって、その腹力が歴史にまで影響を与えたエピソードとして
阿茶局が「 大阪冬の陣 」で、豊臣方との和議に際し徳川方から特使として派遣され政治的役割を果たしたことがよく知られています。

 

 

 阿茶局を一躍日本史に登場させた、この和議については、TVドラマで放映されてるような・・あんな和やかで生易しいものではなかった・・この和議は、リアルの現場では恐ろしいくらいの腹の力が要求されるものだったと言われています。

 

 と言いますのも・・講和の談判の最中も、講和を有利に進めるために徳川方の戦闘は中止されず・・闘いの真っ最中でして、

 

矢を射当てたとき、射手が大声をあげる矢叫びの声や
双方の剣戟( けんげき )の響きがキンキン響き渡って物凄い修羅場のまさに真っただ中です。

 

 

しかも、イギリスから輸入した大砲( セーカー砲、カルバリン砲 有効射程距離1800m、最大射程距離6300m )の砲弾( 一個の重さ約8kg )が大阪城にバンバン撃ち込まれ、轟音が鳴り響く中を講和( 和議 )の為に往来し和議に臨んだと言われています。

 

そのため阿茶局は、鉄製の駕籠に乗って大阪城に行った・・
和議の為の談判中も駕籠の中から大声で会話したという逸話まであります。

 

( しかし、いくら鉄製の駕籠に乗って、その中にいても・・
一個の重さ約8kgの砲弾が秒速500mでやってきて、
もし万一運悪く阿茶局が乗ってる駕籠に、ドカーンと直撃したら・・その衝撃力は50tです。

 

いくら鉄製の駕籠でも、ただでは済まないでしょう。

 

それに・・あまりに頑丈にしたら、駕籠を運ぶ人も重くて運べないでしょう・・

 

ですので

 

鉄製の駕籠と言っても「 流れ弾や流れ矢を防ぐ程度 」の気休めだったのではないかと・・

 

 そういう背景からして「 家康公の為ならば・・お役に立つなら・・ 」という強い思いがあって、才知だけでなく度胸もあり腹の力がないと交渉の場にすら立てないのではないでしょうか?
・・普通の女子(おなご)では無理ではないかと思われます。
こういう方を列女と言うんではないかと・・

 

 

 

 

「 大坂夏の陣 」では真田幸村が家康本陣を狙って
鋭く切り込んで、その覇気に気圧され、本陣の旗本隊が、逃げ腰になり
崩れかかって危機に陥った時、攻めてくる相手に決して背を見せず
家康の傍らにいて、矢面に立ち、体を張って家康を守ったのが
阿茶局( あちゃのつぼね )その人だったとも言われてますので・・

 

 

そういう具合に家康は阿茶局から篤く信頼され、よく尽くされ愛されてたし、、家康自身も懇意にしてたがゆえに心身のエネルギー状態もよく心の強さ、積極性が保たれ

 

節目・節目の危機で

 

苦しまぎれ・・とか・・周りに迎合し便乗で決断したりだとか

 

激情に駆られて決断するわけでもなく単なる思いつき・・気まぐれで決断するわけでもない

 

冷静かつ沈着に情勢判断を誤らず対処し大きな決断をくだし得て、
それがよい結果につながったのではないでしょうか?