出会いというのはとても奇妙なもので

 

人間力の高い、いい人との出会いと交流で心が積極的刺激を受けて異次元に運命を変えることだってあります。

 

 

このことを徳川家康公についても史実を追いながら考察してみます。

 

 

ただし、この戦国時代当時の道徳観、倫理観と現代では、あまりに大きな乖離があることは否めません。
現代の倫理・道徳的常識とは、かけ離れたものも多いです。
ですが、時代をこえても通用する普遍的なもの・・変わらざるものもあると思いますので・・

 

 

家康公の運氣について考察してみると

 

 

 家康公の場合は阿茶局( あちゃのつぼね )が秀吉公の寧々( 北政所 )みたいな位置でして

 

 やはり家康公も初期値的に強運の星に生まれてることは間違いないですが

 

 この御方を1579年に側室にして交流するようになってから
公の運気は「 うなぎ登り 」になっています。

 

それまでは運の強さはあるものの、鳴かず飛ばず・・
「 いくら待っても鳴かないホトトギス 」でして
ひたすら下積み・・忍苦続きの日々です。

 

 

 

今川義元のもとでは、当時の家康(元康)の家臣団は
先陣ばかりを務めさせられ
言ってみれば「 使い捨て・・」「 ぼろ雑巾 」のような立場です。

 

そういう´使い捨て´のような立場でも生き残れる
ということでも強運を匂わせていますが・・浮かばれていません。

 

1560年に義元が、かの「 桶狭間の戦い 」で信長に敗れて後、
やっと今川家の人質から解放され三河で独立しています。

 

ですが

 

信長と同盟を結んで後も、今川家の時と同様、
その関係は実質的には、臣下とあまり変わらない立場で
最もリスクの多い先陣を任されることが多かったと言われています。

 

 

それに三方ヶ原の戦い(1572年)では、
武田信玄が指揮する
当時最強の武田軍に惨敗しています。

 

その際は、恐怖のあまり馬上で糞尿を垂れ流し、
ほうほうのていで浜松城に逃げ帰ったらしく・・

 

脱糞の匂いに気づいた部下から諌められた・・
という逸話まであるのだとか。

 

 

( お食事中の方には申し訳ない話ですが・・・ )

 

 

こういった逸話を知るにつけ

 

家康も最初から豪のものだったわけでもなく、聡明だったわけでも
元から忍耐強かったわけでもなく「 環境 」によって創られた分と

 

理想を意志し自ら意志、意欲をして後天的修練

 

なお修練については別ページで家康公の知られざる秘密というコーナーも設けて考察してますが

 

そういう鍛錬で

 

自分自身の心を腹とともに心身を強く創って人間力を高めていった・・

 

 

関わりの中で武芸にも戦略にも秀でて聡明に自らを作っていった分の
合成的なものがあると観ています。

 

 

 

 

 

 

※余談ですが三河武士の強靭な結束力と強さも、
使い捨ての先陣を任される試練と苦難のなかで
作られ培われていったという説もあります。

 

 

 家康公は6歳で織田家の元に人質に送られ、織田家が
今川家に敗れて後

 

今度は今川家の人質として駿府へ送られ、
8歳から19歳までの約12年間を
人質として生活することを余儀なくされてます・・

 

家康公の類まれな忍耐強さと腹の強さは下積み的な環境によって創られたとも言われています。

 

 結果論的には、こういう辛抱があったから人格的に人間力も高まり
 棘が削られ円くなる・・さらに深みが増して挫折や逆境の痛みに対する耐性が付き・・

 

 理屈では測れない人情の機微を解し
( 相手の背後の苦の音が見える )ようになって、よかったとも言えるのかもしれません。

 

 

話を元に戻しますが

 

家康公は、阿茶局( あちゃのつぼね )という
人間力が高く波動的相性抜群の福女に会う前はかなり下積みでして・・
生き残れただけでも滅法強運ではあることは匂わせているのですが

 

戦闘においても先にも書いたように、武田信玄に惨敗をし滅亡寸前まで追い込まれています。

 

 

 

 

結婚においても、家康公は、あまり良い話を聞きません。

 

阿茶局を側室にする・・ずっと以前に築山殿と
政略結婚していますが、

 

この築山殿は、今川義元の養女で
お嬢様育ちで年上で嫉妬深くて気も強く気位が高い
いくら大大名の養女とは言え人間力の点で、どうやら激情タイプで問題のある女性でもあったことから、
あまりいい結婚ではなかった・・大変だったという逸話も残っています。
ここでは書きませんが築山殿のあまりの嫉妬深さが昂じたエピソードもあります。
( 家康公が側室にした女性は、秀吉公と違って上流階級好みでなく、
家柄が良いとかいう視点では決して選ばず・・と言いますか・・もう懲り懲りと思うほどだったせいなのか、むしろ遠ざけてる感が凄いです。(;^_^A
全員身分の低い下級武士の娘やお百姓さんの後家など、すべて下層民の出身で
聡明さや丈夫な子供を産んでくれそうな方・・その他独特の基準で選んだのは、
この築山殿との結婚(の失敗で懲りたこと)と秀吉公の失敗から学んだとも言われています )

※ちなみに上層階級だからダメというわけでは決してないはず・・相当厳しくかつ温かく躾けられる立派な娘さんだっているはずなので念のため(;^_^A

 

 

 

 

そんな忍従と下積みがずっと続くなかで
家康公は、強運なのに、いっこうに芽が出ないわけでして

 

それでも何でも心の積極性を耕してたことが後の福女を引き寄せたのだと思いますが

 

 

特に

 

家康が38歳の時、阿茶局( あちゃのつぼね 当時25歳 )を
側室にした時期

 

1579年は家康にとっては、まさにどん底でして・・

 

長男・・そして正室( 築山殿 )を・・
所謂「 築山殿事件 」で知られるお家騒動で、信長の命を享けて
家康自身の命令で切腹( 自害 )させる・・という痛恨の絶苦( 絶痛 )をなめています。

 

 

 

ですが

 

 聡明で人格的にも優れた阿茶局を側室にしてから約12年・・

 

 

波動的相性も良くお互いのよいとこを交換し合ったお蔭で

 

 

心の積極性・・その強さがパワーアップし、本来の強運が弾けたお陰なのでしょう。

 

 

どん底の苦から大きく飛躍しています。

 

 

細かくは阿茶局を側室にした1579年+3年=1582年

 

織田信長が明智光秀に本能寺の変で討たれ
明智軍から逃れるため、

 

滞在していた堺から山中(伊賀)を越え三河へ運よく無事に帰還し

 

 

 

そうして、これを吉に転じ
この頃に名参謀「 本多正信 」が家康公の家臣になることで
甲斐、信濃を支配下に置くなど着実に勢力を伸ばしていきます。

 

 

 

 

そうして1579+3+9=1579+12=1591年には、
豊臣秀吉に臣下の礼をとってはいますが豊臣政権下で重鎮( ご意見番の一人 )になっています。

 

 秀吉公は、この時が絶頂期なのですけど・・その3,4年前から判断がおかしくなり

 

恐らくは、この頃くらいから人間力や徳の点で寧々に遥かに及ばなかったし
むしろ秀吉公をお腹の深いとこではよく思ってないふしのある
茶々( 淀殿 )に入れ込み始めたのもあると私は観てますが

 

秀吉公の心の消極性のうち残酷性、横暴さ、傲慢性等が増したせいか

 

その後、失政、失策・・が目立つようになり民心も離れ運気を落とし

 

秀吉の弟で家臣にも慕われていた秀長が亡くなるなど不幸も続いてまして

 

 以下の図のとおり運気が下降線を描き豊臣政権は、ほころびが見え始めてるなかで

 

 

 

 

家康公の場合は家臣団の結束力がさらに増して

 

 

 

図示すると以下のとおり

 

秀吉公の運気が1585年以降爆下げし、落ち込んでいく中で

 

家康公の場合は下積みの陰徳やらもあったと思うし
阿茶局のあげま作用なども影響したんだと思うんですが
この方と結婚後12年後の1591年においては

 

国内における影響力が着実に大きくなっていきます。

 

 

 確か関東転封( 関東に移封 )になったのも
1591年でして当時の視点からみたら左遷ですが
領地は250万石になり大きな転機になっています。

 

 

そこから更に9年後の決断が要求される変転の年・・
1600年に関ヶ原の戦いで圧勝し・・
そこから3年後・・1603年には江戸に幕府を開いて征夷大将軍になっています。

 

( 阿茶局を側室にした年1579年+12+12=1591+12=1603 )

 

 

さらに、そこから12年

 

 上の図のとおり阿茶局を側室にして12×3=36年後に大坂の陣(1615)で豊臣家を滅ぼし
その後300年近く続く徳川幕府( 江戸幕府 )の雛型の完成をみています。

 

 

 

 

 家康公は忍従と屈辱に耐える苦労続きの生活が長かったのと

 

日頃の鍛錬のお陰か

 

神経の太い線が抜けたように失敗に対する耐性があり

 

さらには、心の機微に敏感で部下はもちろん女の人の扱いにも長けてたようでして

 

先にも述べたように側室選びにも失敗せず・・

 

秀吉公みたいに300人もの女性に手を出し色に溺れることもなく・・

 

秀吉公の正妻だった寧々にも非常に丁重でした。

 

 

 

とりわけ人間力の高い阿茶局( あちゃのつぼね )を大事にし

 

 この方との間に子供はできませんでしたが

 

戦場にもたびたび同伴させてたという史実も残っています。

 

そのせいか阿茶局は、小牧長久手の戦いに同行した折
それが原因で流産した・・とも言われています・・・

 

 

 

信頼し特別扱いだった証左を他に探るなら

 

事実として家康公は遺言で阿茶局( あちゃのつぼね )に対しては剃髪すらさせてません。特別待遇です。
( 他の側室は全員 家康死後、尼になったと聞いています )

 

 

 

そういう具合に家康は阿茶局から篤く信頼され、よく尽くされ愛されてたし
家康公自身も懇意にしてたがゆえに心身のエネルギー状態もよく心の強さ、積極性が保たれ

 

節目・節目の危機で

 

苦しまぎれ・・とか・・周りに迎合し便乗で決断したりだとか

 

激情に駆られて決断するわけでもなく単なる思いつき・・気まぐれで決断するわけでもない

 

冷静かつ沈着に情勢判断を誤らず対処し大きな決断をくだし得て、
それがよい結果につながったのではないでしょうか?

 

 

その一方で、これがおかしくなるといくら強運の星の下に生まれていても
つき合う人などの影響で運気がおかしくなって決断を下す当の本人の判断をおかしくし
優柔不断性、横暴性、傲慢性・・などの消極性が強調的に出てきて
重大な転機における選択にも大きな影響を与え運を落とす場合がある。

 

 

 

 

 こういうふうに調査してみると・・やはり自分自身を磨く努力し、プラスアルファで人間力の高い積極的な人と交流し
波動的相性がよい方と長所を学び合うというのと
お互いのエネルギーの交流( 言葉、態度、振る舞い )が
自然にお互いの人格を創り、何らかの周期性のある運気にも影響する

 

 

 

このよしあしが運気の周期における重大な岐路において盛衰に関係するかもしれない・・というのが、何となく視えてくるような気もしています。

 

全ての方が、このパターンとは言えないと思いますが戦国時代の三英傑は、結構ばっちりと年数がハマってモデルケースのごとく周期性があるように思えます。

 

 こういう分野もさらに研究が進んで、研鑽の動機付けになるとよいですよね。

 

 

これらの記事が何らかの参考になれば幸いです。

 

 

 

で・・まあ多少の不満はあるかもしれませんが・・完璧な人間なんていないわけだし、人との交流なんていうのも普段からお互い多少の欠点は、まあまあと目を瞑り合ってお互いの良いところを認め合い交換し合うってのは意外に大事だと・・この記事を書きながら思った次第です。

 

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