出会いというのはとても不可思議極まりないもので

 

 

相性抜群で人間力の高い・・いい人との出会いで勇気百倍、積極的に感化され

 

劇的に運命を変えることだってあります。

 

 

 

このことについて、秀吉公、家康公について考察してみましたが

 

信長公も絶対に外せない方ですので史実を追いながら考察してみます。

 

 

 

「 織田信長公 」の場合で波動的相性抜群の福女を探ってみますと、

 

 

信長公が最も愛したのは正室の濃姫と言われています。

 

 

濃姫は謎多き女性の一人でエピソードを探すことが難しいのですが

 

 

 

僧侶から還俗し油売りから身を起こし戦国大名になった、あの斎藤道三の娘であることは史料からわかっています。

 

 

 

濃姫の父親に当たる斎藤道三という方については諸説が入り乱れてますが

 

この時代は家柄だけでは通用しない時代だからこそ、多くの才能・才覚が
頭ひとつ、腕一つでのし上がれる時代でして、
まさにこの人( 道三 )も、この時代を象徴したような方だったというのは
歴史が証明しています。

 

 

信長公の政策のひとつであった「 楽市楽座 」や 「 関所の撤廃 」も
舅である道三が先に領内において類したこと( らしきこと )をしていたと言われています。
信長は斎藤道三らから学んだことを、楽市令として制度化し、より拡大して実行したとも言えます。

 

 

道三は信長公の器量を本能的に見抜いたから
美姫で肝も据わっていた愛娘を信長にやったとも言われていますが
濃姫も父親である道三の気質を少なからず受け継いで
非常に芯の強い聡明な女性だったのではないでしょうか?

 

 

 

 

信長公は、進取の気性溢れる道三の娘である濃姫と
1548年に政略結婚しています。

 

 

 

ただし、結婚当時の公は、「 うつけ者 」と言われ最低・・

 

主だった重臣たちからも、自分がやってることを理解してもらえずお家内の評判も散々です。

 

 

( 油断させるために、わざとそうしていた説や信長公の母親の土田御前が弟ばかりに愛情を注ぐので気をひくためにそうしてた・・と言う説もある・・
ですが、早くから当時の人とは次元の違う発想で革新性を発揮して軍事のみに特化した兵を訓練してたわけで底知れない胆の強さや合理主義的革新性を匂わせていますが )

 

「 信長公記 」にも、信長は、よくこれで人前に出られるなぁ・・
というような奇妙奇天烈な服装をしたり

 

品行方正とは程遠い・・信長公の弟と違い過ぎると申しますか・・常識はずれで
行儀は悪く、城下では人目も憚らず柿や瓜をかじり
餅を食い、人に寄りかかり、肩にぶらさがって、ふらふら歩いていたこともあるのだとか。

 

農閑期の合間に兵を徴兵するのではなく
専門の兵を囲い込み直轄で徹底的に鍛えるという革新性や合理性も見せていますが

 

これも当時の主だった重臣たちに理解されません。

 

 

 

初期値的に胆の強さや革新性を匂わせるものは感じられるし

 

今の視点で視たら当たり前のことも

 

当時の方には全く理解されない。

 

先に挙げたように「 大うつけの信長 」で重臣からも信任が厚くなく理解されず最悪・・

 

跡目争いも混沌としてたわけです。

 

 

そういう有様だったのが、波動的相性抜群の濃姫( 斎藤帰蝶 )を妻にし

 

定説では信長公と濃姫(帰蝶)との間には、実子がいなかったとされてますが

 

良きところを学び合うことで

 

信長公の強い運がポーーンと弾けたようにして高まったように思えます。

 

 

事実として信長公は、濃姫を娶った後に激しい織田家の跡目争いを制し

 

組織の悪しき信念体系や硬直性を打破する革新的な策を次々と導入し

 

尾張一国をほぼ統一し頭角を現していきます。

 

 

 

そうして

 

更にその強い運気が高まり

 

濃姫と政略結婚して12年後

 

すなわち1548+12=1560年 

 

いわゆる信長公のエポックメイキングになった戦いである
「 桶狭間の戦い 」で世間の評価も一変します。

 

 

 

信長公は、この戦いの出陣前に清洲城において

 

「 人生五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻のごとくなり 」
というフレーズで有名な「 敦盛(あつもり) 」を舞い
熱田神宮において戦勝祈願をした後、出陣しています。

 

 

 

そうして公は情報を制し、機先を制し気の緩みをついて

 

信長公直轄で普段から鍛えに鍛えていた精鋭の2000〜3000の兵力を
義元本陣(の一点)に集中的にぶつけることで

 

天候も味方し

 

5倍とも10倍とも言われている圧倒的な戦力差を覆し

 

「 東海の雄 」と言われた今川義元を打ち破っています。

 

 

 

 

 

この戦いの結果については周辺大名の、ほぼ誰も信長が勝つなんて予想もしてなかった。

 

 

ですので、これが信長公にとって天下統一に向かう大きな布石になったのは、ほぼ間違いないですよね。

 

これは公にとって大きな戦いでしたが・・

 

この時期というのを改めて俯瞰してみると・・これは濃姫と信長公が結婚して丁度12年目に当たる年でした。

 

 

 

信長公の理念や信念の強さ・・さらには運の強さは・・もういろんな専門家が語り尽くしてる感がありますので、ここでは敢えてふれませんが・・個人的には相性抜群の濃姫と結婚して12年間で、波動が共鳴し合い信長の気迫の強さや信念、強い運がさらにパワーアップし、その節目に当たる12年目に大きな運を引き寄せた・・として史実を因果分析してみたい気持ちに駆られます。

 

 

 

 

それから更に12年後

 

1560+12( +1)=1573年

 

1年ずれてますが、
中世的権威の象徴でもあった足利義昭を追放し
230年以上続いた室町幕府を滅ぼしてまして

 

その後も天下布武という大きな理念を抱いて天下統一事業にまい進し

 

強固な中央集権体制のかたちを匂わせるものを作っています。

 

 

諸国大名が領地拡大や領土保護に、きゅうきゅうしてたのに・・
信長公は、彼らとは、あまりに次元が違う
大志と合理的考えを持って行動していた・・と言えると思います。

 

 

 

 

その約9年後に変転があり

 

これについては、濃姫との関係性含めて
どういう内輪のものが作用したかは
一級資料を当たるほどの時間がないのでわかりませんが

 

 

 

 

部下( 明智光秀 )の裏切りにより1582年に本能寺の変で倒れますが

 

濃姫と結婚後の運気の周期性( 運気のリズム )は感じられます。

 

 

 

以下に図示しておきます。

 

 

 

 

こうしてみると相性の良い濃姫と結婚し、波動が合って結び合いを強めたことで
信長公の大胆さや志の大きさ・・心の強さ・・周囲の巻き込み力がさらにパワーアップし、
その運のスケールも拡がり勢いを増した・・と見ることもできるのではないでしょうか?